「はじめまして。私が、近藤です」。眼鏡を掛け、朴訥(ぼくとつ)とした落ち着いた表情の、今は亡き近藤文雄先生(三月十一日死去、前太陽と緑の会リサイクル代表)が出迎えてくださいました。先生については、学生時代からひょんな拍子で出入りさせていただくことになった京都の映画監督さんから、いろいろな話をうかがっておりました。
 「徳島で生まれ、若き青年時代を軍医として勤務し、九死に一生を得て帰国。その後、仙台の国立西多賀病院の院長時代に、筋ジストロフィーの、ある患者さんのお母さんと出会ったことが、近藤先生の運命を変えるようになったんだ」
 「全身の筋肉が衰えることで、二十歳前後で多くの若者が亡くなる、本当に厳しい病気でね・・・。治療法がないので病院に置いておくこともできず、家庭で面倒を見るしかない。当時は、それが当たり前の時代だったんだ」
 「どこの国立病院でも入院させている筋ジスの患者はいなかったから、先生も同じようにこのお母さんに伝えたんだ。しかしね、神様はね、このお母さんに三人もの筋ジスの患者さんを授けられたんだよ。お父さんは生活のために働かなくてはならないし、お母さんは子供たちの世話を昼間だけでなく、夜も二時間ごとに起きてみないといけないし・・・。それはね、子供たちは筋肉が衰えて寝返りができなくなり、そのままだと痛くて寝られないからなんだ」
 「運命のイタズラは、先生にこの筋ジスの患者さんを例外的に入院させたわけだ。家に比べれば、ここには看護婦もいるし、設備もあるということでね。そしたら全国から百五十人もの患者さんが集まってしまって・・・。先生も、内心は大変なことになったと、びっくりされたと思うよ。そこからが大変なんだ」
 「この子たちをどうするかという問題に、先生は病院で勉強ができるベッドスクールってことを始めたわけだ。今じゃ、病院に入院してまで勉強しなくちゃいけないのかって、嫌みを言われる世の中かもしれないけど、当時は、勉強したくても、医療と教育は別に考えるべしということで、やってはいけないことだったんだ」
 「やってはいけないと言われると、やりたいのが人情。ほかの病気で入院した学校の先生なんかが、ボランティアで勉強をみてたりしていたんだ、こっそりと。それを病院長が認めたわけだから、みんな大手を振ってやり始め、最後は病院の中に養護学校までつくってしまったわけ」
 「それは、本当にすごいことだったよ。でもバタバタ死んでいく。もうすぐどこかの国で治療法が見つけられるまで、何とかリハビリやって、少しでも時間を稼ごうと必死だったね。それで、日本でこの研究所をつくって、筋ジスの治療法を見つけようってことになった。でも国立病院長というと国家公務員ということで、なかなか動きづらいことがあったんじゃなかったのかな・・・」
 「その後、国立西多賀病院を辞め、郷里の徳島で個人病院を開き、筋ジスの研究所設立運動を進めるために、『太陽と緑の会』をつくったわけだ。大いなる変わり者というと失礼になるが、僕は、今までこんな医者に出会ったことなかったよ」
 映画監督さんからの話が、とめどもなく私の頭の中によみがえり、ここにおられるこの方が、あの近藤先生か・・・、と私はひとりポツンと立ちすくんでいました。
 「先生、なぜ仙台を去られたのですか」という突拍子もない質問に「それはねえ、筋ジスの研究所をつくろうなんていう医者が、なかなか他にいなかったからだよ」
 私は「そりゃそうや、そりゃそうや・・・、それが当たり前や」とブツブツ独り言を言いながら、先生の顔をのぞき込みました。
(徳島市入田町月の宮)
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