投稿日:2018年07月20日

代表通信〜社会福祉の原点や本質を見つめて

「−今、社会福祉の原点や本質を見つめて−講演会報告」 H30.7.20

「街の中の喫茶店あっぷる」(社福)ハートランドで7月14日(土)に行われた講演会は、有地立夫(特別養護老人ホームジョイトピアおおさ園長)さんが「社会福祉のゆずらないもの」と題して、制度論を横に置き「何のための社会福祉か?」を語ってくれました。

「『卵かけご飯が食べたい』といったお年寄りの気持ちも『もし食中毒が発生したらみんなに迷惑が掛かります、それはやめて下さい!』そんな言葉が立ち塞ぐ現実に、どうしたらいいのか?」
そんな今と、有地さんの過ごした若き青春の日々をクロスさせ、懐かしい音楽を背景に、語りは進みました。
「社会福祉は変わり者がやるもの・・」
そんなほんの少し前は当たり前だった雰囲気を感じさせてもらいました。

日本の「社会福祉学」のルーツは1931年に同志社でスタートした文学部神学科社会事業専攻でしょう。その後文化学科厚生学専攻になり1948年に社会学科社会福祉専攻となりました。資格など中高社会科教員資格か社会福祉主事任用資格しかなかったものが、社会福祉士・精神保健福祉士・介護福祉士など沢山増えました。

「専門化で中身が充実したか?」
私はとてもそうは思いません。制度論で社会福祉が語れるならば、社会福祉六法を熟知した法律家で十分です。社会福祉の根っ子にある宗教性(キリスト教的良心など)にルーツを再確認する必要があるでしょう。人は原罪を背負ってこの世に生まれ、そんな後ろめたさから、教会に行って祈り献金もし、親鸞も人間は煩悩具足の凡夫・罪業深重の凡夫と言い、善人と悪人にあらかじめ分かれているのではなく、どんな人間にも善人の要素と悪人の要素が入り混じっていると考えるのが、人間の叡智でしょう。

ある日突然自分の責任の及ばないところで、困難がやってくる。どんな親から生まれるか、どんな家庭で育つか、五体満足に生まれるかなど、偶然の要因により決定づけられてしまう部分が非常に多いわけです。原因究明といったアプローチとは違う軸が必要なのでしょう。

「社会福祉とは底辺に向かう思想である」と小倉襄二さんが語ったその方向には、システム論では見えない人間存在の不可思議さがあります。(杉)

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