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投稿日:2019年02月28日

スタッフ雑感~事情はどうあれ

スタッフ雑感~事情はどうあれ

 4才の女の子を洗面器で殴ったという容疑で26歳の母親が逮捕された、というニュースがありました。
 虐待によって幼い子供がケガをしたり、命を落としたり、といった報道が増えてくると、虐待そのものが増えてきたように錯覚しそうになりますが、実際のところどうなのでしょうか。
 ご存知のように、世の中で起きていることの中で、私たちが知りうることというのはほんの一部にすぎず、しかもそれが必ずしも「真実」とは限りません。

 相次ぐ虐待の報道に触れたとき、「虐待は絶対にしてはならないことだが、何か事情があったのかもしれない」と捉えるか、「事情はどうあれ、虐待は絶対にしてはならないこと。厳しく罰するべきだ」と捉えるか、考え方は様々だと思います。
 「事情」と言っても、因果関係だけで推し量ろうとすれば悪者探しで終わってしまい、単純な話ではないのが難しいところです。
「事情はどうあれ、虐待は絶対にしてはならないこと」
 これはある意味正しいと思います。虐待を受ける側の立場に立って考えれば、決して許されることではありません。

 ただ「事情はどうあれ」という言葉を、事情をよく分かった上で使うのか、報道や伝聞からの推測に基づいて使うのか、によって意味は変わってくるかもしれません。
 憶測や思い込みだけで「事情はどうあれ」と言いきってしまうことは、相手の置かれている状況、境遇に対して思いをはせること、想像力を働かせてみることの一切を拒否し、切り捨てていくことになりはしないのだろうか、と思うことがあります。
 自分のことで精いっぱいの日常の中で、想像力を働かせることは根気のいる作業です。「理由はどうあれ、あいつはアカン。アカン奴は厳しく罰して、社会から排除すればいい」と切り捨てる方が決着が早く、精神的にもはるかに楽かもしれません。

 虐待という社会的に罰すべきことに手を染めてしまった「ダメな人」は対岸の存在であり、自分は決してそのようなことはしない、と位置付けることで、自己の存在は安定し、精神の平穏が保たれるかもしれません。
 しかし我が身を振り返ってみたとき、果たしてそうなのだろうか、と思うことはあります。その人と同じ親のもとに生まれ、同じ境遇に育ち、同じ状況に置かれたとしても、自分だけは決してそのようなことはしないと断言できるほど、自分が特別な存在とはとても思えません。

 確かに「自分の人生をどのように作り上げていくかは本人の努力次第」という言い方もできるかもしれません。物事がうまいかないことのすべてを他者の責に帰すことを正当化するつもりもありません。ただその努力ができるようになるためのベースの部分についてまで自己責任に帰結させてしまってよいのだろうか、との思いはあります。
 虐待という行為を全否定することと、その行為に至ってしまった人を全否定することと、心情的にはイコールと考えたくなるところですが…。(り)
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