投稿日:2010年10月23日

事務局通信36〜原点回帰

 この9月にありのまま舎専務理事の山田富也さんが58年の生涯を終えた、との報せが届きました。兄弟が3人とも筋ジスの患者さんだった山田三兄弟と近藤文雄との出会いから、現在の太陽と緑の会に至るまでの細い糸をたどって行く中で、ある文章を思い出しました。
 太陽と緑の会創立者の近藤文雄が、平成7年8月に著した「私の世界観」の後書きです。それから2年半後、近藤文雄は平成10年3月11日に81歳でこの世を去りました。以下は、その抜粋です。

「私はこの40年間、身体障害者に始まって各種の心身障害者、とくに筋ジストロフィーの問題について深く関わってきました。さして、それらの人々の幸せを守るために可能なあらゆる方法を模索し、まだ治療法の確立されていない筋ジス患者のためには治療法を開発する研究所設立まで考えました。それらの企画は一応それなりの成果を収めましたが、結局障害を完全に取り除かないかぎり障害者は満足できないと言うことが分かりました。しかし、いくらやったところで切断した手足が生える訳ではなく、破壊された脳細胞が生き返る見込みもなく、また筋ジス患者の失われた筋肉が再生するはずもないので、そこで行き詰まりました。
 そして改めて考えてみると、仮に手足が生え、筋肉が回復したとしても、それだけでその人が無条件に幸せになれるものではありません。なるほど回復したときは悦ぶでしょうが、そこは人間、まもなくその喜びは薄れて他の不満が頭をもたげてきます。そして、障害が回復したということは幸せ競争において、それでやっと健康な人と同じスタートラインについたに過ぎない、と言うことに気付いたのです。
 それでは、彼らが文句なしに100パーセント幸せになれる方法はないものか、ということになります。それを探したいと思いました。結論的にそのような道も無いではない、と今は思っていますが、それは途方もなく難しい道で、まず私自身が自らの問題として取り組むべきであると覚ったのです。全ては当人の心がけ次第、傍の援助には限界があるということです。
 人間の欲望には際限がありませんから、当人がその気にならなければ、傍が幾ら努力しても完全な満足は得られません。反対に当人さえその気になれば今のままでも十分幸せになる条件はととのっているのです。まわりを見回してみると、恵まれない環境のなかで満ち足りた平和な暮らしを楽しんでいる人がいくらも居ることに気付きます。
 幸せ薄い人のために傍の者が懸命に尽くすことは美しいことです。しかし、そのなかで、当人が人間の真の幸せとは何かを覚る手助けをする努力も忘れてはなりません。その方が一番大事なことだからです。このことは老人問題においても同様です。より多くの物心のサービスを受けることがより大きな幸せであると考える傾向が、障害者や老人の側ばかりでなく与える側にもしばしば見られます。そうなると、物さえ与えればよい、サービスさえ増やせばよいと言う、形に捉われた福祉政策が罷り通り、肝腎の心の問題が忘れられることになります。心が忘れられた福祉とは何でしょう。長者の万灯だけが目について、貧者の一灯の価値が分からなくなるのです。」

「自分だけは、死ぬまで皆から大事にされ、惜しまれ、平和裡に死んでいきたいと願うのは人情ですが、そんなことを願う人にそんな望みが叶えられるはずはありません。欲望は一つ実現すれば、次は一段上の欲望が現れて最後には実現不能な欲望に突き当たるだけだからです。足ることを知る人だけに満足は与えられるのです。」

「最近、老人や障害者の福祉を論ずるとき、よくQOLと言う言葉が聞かれます。より高度のQOLを実現するにはどんなマニュアルが必要かということが論議の中心になっているようです。そこでしばしば見られるのは、一番肝腎な当人の生きる心構えが問題の外に置かれているということです。しかし、それを抜きにしてつくったマニュアルは気の抜けたビールのようなものです。とはいっても、人間が如何に生くべきか、人間の真の幸せは何処にあるかという事を知ることは一生かかって完成すべき大事業で、人生の終末を目前に控えてつけ焼刃で間に合わせることなど出来ません。言うは易く実行しがたいことであります。それでもそのことに気が付けば幸いです。人生を達観し解脱の境地にたっする事は無理としても、南無阿弥陀仏に徹する事が出来ればこのうえありません。そのためには、宗教家は奮起しなければなりません。救いを求める人々が巷に溢れているからです。
 といって私自らが批評家の位置にとどまっていたのでは申し訳ありません。非力なりにも出来るだけのことは実践したいと思います。たとえ、ドン・キ・ホーテ的蟷螂の斧と終わっても、それは仕方のないことです。」

 私が初めてこの文章と出会ったのは、まだ太陽と緑の会と関わるようになって間もない頃でした。大学を卒業していくらもたたない未熟な青年にとって、東北6県の中心的な国立病院で病院長として筋ジスの患者さんの長期入院を受け入れる決断をしたこと、その後病院長の職を辞し郷里の徳島で太陽と緑の会を設立して研究所設立運動に身を投じたことの意味を理解することは、難しいことでした。
ただこの文章を読んで、障害者の問題と自分自身の問題とはつながっているのだ、障害者の問題について考えることは、最終的には自分自身の生き方について考えることなのだ、と心に刻んだことを、今でも覚えています。(小山)